自己肯定とか言うまえに。

ヒマなので また更新。
意外と今まで 忙しかったんだと思えるのって なんだかしあわせ感があるですわ。
ちょっと考える出来事があったので 今回はこんなお話です。
よくある自己啓発とか なんかのセミナーで 自己肯定感を高める って目にします。
じゃあ 自己肯定ってなに?ってなりますが この自己肯定をするには必要なものがあります。
それは 自尊感情。
今は 自尊感情と自己肯定感を 曖昧に扱い過ぎている気がします。あくまで私感ですけどね。
じゃあ 自尊感情ってなに?っていうことですが 自分を大切に思えること 自分には価値がある そう思える感情です。
これは 誰かに作ってもらうものではなくて 自分にしか作れない 持てない感情です。
これを ある狭いグループの中で作らせ 自分を肯定しましょう ってやるのがセミナー。
だから そのグループの外に出てしまえば その場所以外で自尊感情を保つことも 自己肯定もできなくなります。
だから そういう自己肯定感高めるシステムは 永遠になくならない いい商売なわけですね。
これを書くことで そうじゃない! っていうご意見もあるかと思いますが それはどうぞ ご自分のブログで発信なさってください。
どうしてこの話を書こうかと思ったのかっていうと 自尊感情が持てない人は感情を外に出すのが苦手なんだなと
単純に思ったことがきっかけです。
嫌われる勇気っていう本が流行りましたが 別に嫌われるのに勇気なんて要りません。
何をしても 何を言っても どんなに可愛かったり カッコよかったりしても 一定数 嫌いっていう人は存在します。
この前書いた多様性の中のひとつですよね。嫌いって言う自由もあるよってことだし それを押し付けなきゃいいだけ。
嫌われることを恐れて感情を殺して生きて行けば 誰かに認められない自分には価値がないっていう基準を作り出します。
怒ったり 泣いたり 喜んだり 素直にしていて嫌われるのであれば 足りないのはコミュニケーションと自分の伝え方じゃないのかな?
私のこういう戯言を読んでくれる人だって ほんの数人かもしれないけど こうして書くことで自分は何を思う?を知ることが出来ています。
そのためにブログをやってるようなもんかもですね。特にセールスポイントがある訳でもないですし。
でも 自分はこうだよっていうことを 外に出すからこそ 自尊感情 私はこれでいい 私は私でいいじゃんって思えるのも確かです。
今はLINEやらTwitterやらが主流ですが ホントにコミュニケーションツールとして使おうとしたら それなりの下地が要るのではないかなとも思います。
リアルに顔を合わせても感情を殺して 仲間外れにならないように 嫌われないように そればっかり気にしているなら 自尊感情も自己肯定もなくなるわけですね。今のスマホ世代には ありがちなようにも思います。
便利さが不便 不自由を産み出していることに 気づくことなく当たり前って思っているから 感情を出せない子が多いのかも。
お皿をきれいに洗えた → ありがとうって言われた。
バイトでがんばったよ → おつかれさま 今日は助かったよって声をかけられた。
こんな小さなコミュニケーションから 自尊感情は生まれます。私でも誰かに必要とされた 役に立った。
これって すごくだいじなことなんですよ。
やってあたりまえ やるのが仕事だろ? こういう世の中になれば 自尊感情なんて持つのが難しいのも仕方ないです。
泣くのも怒るのも 喧嘩するのも 恥ずかしいことじゃないですよね?
出してみないと 相手がどう受け取ってくれるのかなんて 分からないし。
お互いに感情を出し合って 初めて理解できることもたくさんあるし。
喧嘩したら仲直りすればいいじゃん そんな信頼関係も作れないなら いい人間関係なんて作れないし。
若い人がよく エモい って言いますが(既に死語だったらごめんね。) エモーショナルって感情的っていう意味です。
これは 心で感じること 心が動くさまですね。
この反対はロジカル 理論的であることです。感情に対しての思考です。
大切なのはまず感じること 心がどう動いたのかを自分が認めること。
それがないのに 考えたって何にも分からないし 何も生まれなくないですか?
エモーショナルだからこそ 今日の画像 クマの内省が生きてきます。
なんでそう感じる? どうして怒りたくなる? 本当の自分のビジョンは そこにしかないですよ。
めっちょ長いですけど むかしばなしをひとつ。
クマはクマでも アナグマとコヨーテのおはなしです。
今の時代の買い占め騒動って このコヨーテみたいな感じかな?
◎アナグマとコヨーテのはなし
あ~ お腹すいたなあ…。今日もなんにも食べられなかった…。
ひんやりした草の上で コヨーテはぐったり横になっています。
ぼくに命をわけてくれる子は 誰もいないのかなあ…。
ぼくが誰かに分けてあげるばんがきたのかなあ…。
それなら仕方ないのかもしれない。
そうつぶやいて ぼんやり真っ青な空を眺めていました。
カサカサ カサカサ。
どこからか草を踏む音が聞こえてきます。
あの足音はアナグマくんの長い爪の音かあ…。
ぼくはアナグマくんの命になるのかなあ。
それもいいのかもしれない。
そんなことを考えていると カサカサはすぐ近くまで来ていました。
コヨーテくん なにしてるの~? アナグマはニコニコしています。
ああ… アナグマくん。ぼくを食べにきたのかい?
きみの命になる こころの準備はできてるよ。
ぼくはもう 分けてもらう命を ぜんぶ使っちゃったみたいなんだ。
アナグマはビックリした顔をして コヨーテに訊ねます。
コヨーテくん 誰に命を分けてもらおうとしたの?
コヨーテの話を聞いてみると どうやらオオカミを追ってみたり
クーガーを狙ってみたりして 逆に狙われたこと。
エルクを追いかけて岩山を登って とても疲れてしまったこと。
なにも考えずに 目に入ったものを やみくもに迫っていたようです。
最後は疲れ果てて ウサギにもプレイリードッグにも バカにされてしまって
この草原で横たわっているのだとか…。
アナグマは そりゃあ仕方ないよねえ。誰も命を分けてはくれないよ。
そうコヨーテを諭します。
コヨーテには 仕方ない の意味がわかりませんでした。
こんなに一生懸命にやったのに! なにが仕方ないっていうの?
アナグマに突っかかっていきます。
アナグマはコヨーテに こんな問いかけをしました。
じゃあ きみに命を分けてあげるみんなは 仕方ないから食べられてあげるねって思えるのかな?
きみみたいに ぼくに食べられてもいいやって 投げやりになれるの?
きみはなぜ オオカミやクーガーに 命を分けてもらおうとしたの?
それがダメならエルク ウサギ プレイリードッグって どんどん相手を変えたのはどうして?
コヨーテは答えに困ってしまいました。
アナグマは どうしてこんなことを訊くのかわかるかな?
コヨーテにやさしく問いかけます。
ぼくには何か足りないものがあるからなの?
命をわけてもらえない理由が なにか足りていないからなの?
今度はコヨーテがアナグマに訊ねます。
アナグマはこんな話をしてくれました。
命を分けてもらうのとおなじで ぼくたちも誰かにわけてあげなくちゃいけない日がくるでしょ?
きみがさっき ぼくに食べられるのは仕方ないなって思ったのはどうしてかな?
こころのどこかで 自分よりもぼくの方が強いとか もう叶わないって思ったからじゃないかな?
でも それはきみが弱っているからだよね?
元気なもの同士なら そんなふうに思ったのかな?
命を分けてもらう相手に コヨーテくんになら食べられても仕方ないな。
コヨーテくんのいのちの一部になって 一緒に生きられたらいいよって思ってもらえる自分だったのかな?
オオカミやクーガーは 命を分けてくれる 弱い相手を思いやれるよ。
欲張ったりしないし むやみにいじめたり傷つけたりしないよね?
コヨーテは話を聞きながら泣いてしまいました。
アナグマくん…。ぼくはどうしたらいい?
どうしたら みんながぼくの命の一部になってもいいよって思ってくれるの?
アナグマはやさしくコヨーテを抱き起します。
じゃあ 一緒に命をわけてもらいに行こうよ。
アナグマはコヨーテを連れて草原を歩き ウサギの巣穴にやってきました。
ウサギはアナグマを見ても逃げ出しません。
コヨーテには不思議でなりません。どうして逃げないんだろう?
ウサギの巣穴には子ウサギが眠っています。
アナグマはウサギのお母さんに声をかけました。
ウサギさん あなたのかわいい赤ちゃんを ひとり分けてもらえませんか?
ウサギのお母さんは 悲しい顔をしますが こんな返事を返します。
アナグマさん 分かりました。
どうぞ 私の赤ちゃんをひとり連れていってください。
あなたの命として この子が生きるように。
アナグマはコヨーテを見ています。
コヨーテは ウサギさん ごめんなさい。
アナグマくんは ぼくのために赤ちゃんをくださいってお願いしてくれています。
ぼくからお願いします。赤ちゃんをぼくにわけてもらえませんか?
ウサギのお母さんは コヨーテにこう言いました。
コヨーテさん あなたが今まで 黙ってリスや私たちの赤ちゃんをさらっていたのを知っていますよ。
アナグマさんが あなたを連れて来たとき あなたに何を教えたいのか分かっていました。
どうぞ あなたの命の一部に 私の子どもを生かしてください。
この子の命は あなたに大切なものを与えてくれるでしょう。
コヨーテはまた泣いてしまいました。
この出来事があってから アナグマとコヨーテが一緒に狩りをする姿を見ることがあるそうです。
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