ものすごく考えた一文。

昨日の晩 区切りのいいところで本を閉じてから あれこれ考えちゃったです。
整理する意味で だらだら書きます。
その 考える発端になった一文が この時代にあっても 人種差別問題を扱う本はよく売れている っていうことでした。
これって 50年以上むかしの フランスでのことです。
昨日も書いたけど こういう本の読者層って誰なの? 購買層はどこ? 誰が書くの? って突き詰めると白人です。
どんな意図があって こういう本を出すのか 私にはわかりません。
当事者が自分について書くことは間違っていないと思います。
でも 第三者が切り取った視点や 一方的な考察だけで触れていいことなのかな?
これも少し前に書きましたが 書かれる側にとって ある側面だけを一方的に切り取られて ノンフィクションです って
晒されていくことの悔しさや 悲しみってわからないのかな…。
これが モヤモヤの原因でした。
ハッキリ言ってしまうと 私が個人的に感じた嫌悪感の元は GIベビーって呼ばれたハーフの子どもたちについて書かれた本で
結果として 私の身内は当時でいう パンパン 兵隊相手の情婦だったってことを公言されたっていうことでした。
それは紛れもない事実だし 当時 そういう境遇にいる女性は けして少なくはなかったとも思います。
生きていくことが最優先で 家族を養う立場にいる女性が選べる職業って そんなに立派なものがありましたか?
私はまだ生まれていない時代の話ではありますが パンパンと呼ばれたであろう叔母たちを恥とは思いません。
人が生きようとうするとき 選べる手段が限られているなら その中で一生懸命に生きたならいいじゃんって思っています。
時代が変わってから それぞれの幸せをみつけることもできていましたし。
でもね その本が出版された当時 その身内たちは存命でした。 まだ この社会で生きていました。
平穏になってから出会った夫に 過去を告げられていない叔母もいました。
もちろん もう高齢でしたし 当時のことについて 蔑まれる場所に出ることもなければ この本が出されたことも内容も
知らずに済みました。
ただ そうではない身内も 私を含めもちろんいる訳です。
正直 読んで吐き気がしました。
戦争花嫁と呼ばれてアメリカに渡った叔母は こんな本 捨てちまえって電話をかけてきました。
もちろん 私も叔母も 私の母親も パンパンではありません。
でも 自分の家族や大切な人が蔑まれ傷つくのと同じように 私たちも傷つくんだと知りました。
確かにノンフィクションですが 取材が足りない 切り口が端的過ぎて 何を伝えたかったのか分かりません。
当時 そんなかわいそうな赤ん坊たち ハーフで父親がいなくていじめられた子どもがたくさんいたこと。
それだけを伝えたかったのであるなら 伝え方が違うだろ?って 今でも悔しさは消えません。
今 読んでいるファノンというお医者さんの本も マルコムXの自伝もそうですが 彼らが何に苦しんだり悲しんだり
それでも生きようとすることをあきらめなかったのかといえば 私たちは かわいそうな黒人なんかじゃないよ って
差別を無くそうじゃなくて 私たちが人間であることを伝えなくちゃいけない 変わるのは私たちだよ そう伝えたかったからじゃないんですかね…。
けして 白人を変えよう 差別する側を変えよう そんな傲慢な意図はなかったと私は思っています。
自分の尊厳は自分で守る 人として生きようとすることを見せて行く。
それだけのことですが 当事者には超えなけれいけないものが 次々と目の前に現れてくるんですよね…。
私が今回の本 黒い皮膚・白い仮面の題名を明かさず なるべく人種問題に触れずに読もうとしていたのは それが理由です。
私はファノンが黒人の医師で革命家だから この本を読もうと思った訳ではありません。
マルコムXの自伝も同じです。
変えられないものを 乗り越えた人たち 乗り越えようと頑張った人たちについて ちゃんと知りたかっただけです。
だから 人種問題についてだけを 取り上げて考えるつもりは 最初からありませんでした。
昨晩 ルーツ っていう映画があったなって思いだしたのが 今 感じているモヤモヤの根源です。
文明に馴染まないアフリカの人を都会に連れてきて その反応を見る。
なんて悪趣味な映画なんだろうって ずっと思ってきました。
二カウさんっていう主人公は 単なる見世物なの?って。
後で知ることになるんですけど マルコムXが存命だったころ 彼の自伝の出版を持ち掛けた編集者がいました。
そして その本は出版されるのですが そこにマルコムリトルという人間はいません。
偶像であるマルコムXがいます。ご本人は何度もインタビューに答えて原稿は作成されていますが 偶像として扱われていることが分かっているからでしょうか 本当の自分 現実に起きたことを そのまま答えていないことが 後々の研究でわかります。
この編集者が ルーツの原作者でもあります。
この編集者が考えるジャーナリズムについて 私は分かりません。
私はジャーナリストではないし ジャーナリズムについて語る資格もありませんから。
ただ ノンフィクションというジャンルを手掛けるとしたら 何をどう伝えたいのかは明確に持つべきではないのかな?
原爆資料館に行ったとき いろいろな国の人たちが 熱心に展示を見ていました。
その中にはもちろん 原爆を落とした側の国の方も 今 核を保有している国の方たちもいたでしょう。
在るものを在るままに見せることの意味って いったいなんだろう?って その時 ものすごく考えました。
結論は それが どんなに悲惨なことであっても 事実として受け止めること。
私も こういった現実の当事者であることを認めること。
そして 人間がしてきたことを 同じ人間として受け止めること というところに至っています。
よく 人の不幸は蜜の味っていいますよね。
不幸な混血の子どもたち かわいそうな黒人 哀れなインディアン。
確かに 人の感情に訴えるものはあるのかもしれません。自分よりも不幸な人がいるんだねって 分かりやすいですから。
ただ そこに 必ずくっついてくる かわいそう 不幸 哀れっていうものを誘発する表現。
これは 真摯に生きていた人 生きている人に対しては 使わないで欲しいなと思います。
それが人の尊厳を守る最低限のマナーじゃないですかね…。
私もインディアンと暮らした おもしろいエピソードないの?って訊かれることがありました。
はっきりいいますけど ないですよw
笑っちゃうほど貧乏で ヤギとニワトリ飼って 巻き割りしてました。
それで満足ですか?って 逆に訊いてみたいです。
暮らしや 人が生きてること 生きてきたことって 見世物じゃないんだよ。
言いたいことは これだけです。

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