エルサレムのアイヒマン 読み終わりました。

だいぶ間が開きましたが 「エルサレムのアイヒマン」 読み終わりました。
感想としては 最初からタイトルを 「悪の陳腐さ」 にしてくれたら親切なのになっていう感じですね。
敢えて エルサレムで裁かれたアイヒマンですが アイヒマンという個人の裁判を通して見えてくる
人間なら誰しも持っているだろう 悪 というものを考えることになりました。
悪を証明するためには 正義がないと困るわけですね。
ただ 悪を作り出すのも 自分を正当化する正義感 なのではないかと思ったりします。
正義 対 悪 これほど分かりやすい構図はないですし。
何を正義とするか? この部分に人間の持つ 保身 という弱さが絡んでくると 正義もかなり安っぽくなりますし
そこに生まれる 悪 も その辺に転がっている 安いものになりますね。
悪の陳腐さ この言葉をナチの戦犯の裁判の傍聴記録に使えば 誤解を招いたこともあったでしょうね。
でも ナチの考えていた 最終解決 には ナチ以外の人たち 当事者であったユダヤ人も加担していました。
これは 人種だの国籍だの関係なく 個々人の問題なのではないか? ということなのかなと考えます。
長い物に巻かれる とか 寄らば大樹の陰 という言葉もありますが 長い物 や 大樹 が 自分を守ってくれるとしても
正しい物なのか そこに身を寄せることが人として良い選択なのか? これは別の話かと思ったりもします。
戦禍を生き延びようとするとき 私が生き残るために同胞を差し出す と 考えるのも人間なんですね。
私が生き残るために犠牲は付き物だ そんな正当化になれば 後々 悪 と 呼ばれる物も生まれてくるのでしょう。
どこにでもある つまらないもの。
もちろん 私も持っているだろう 陳腐な悪 なわけですが そういった物を晒さないように 生きていきたいなと思ったりしました。
人気ブログランキング