一切衆生悉有仏性。
昼間 ぐうぐう寝てしまったので この時間に眼が冴えてしまいました。
今年も残すところ2週間とちょっとと 本来なら坊主も走るというこの時期に
まったりと どうでもいいことを考えてしまいました。(・ω・)
きっかけは さっき観ていたテレビでやってた 奇跡のストリートキャット というお話。
この物語は野良ネコと出会った 重症のドラッグ中毒だった青年の話です。
かなり端折ってしまうと この野良ネコ ボブとの出会いで 彼は生きていることが好きになり
自分の生き方を軌道修正する勇気を持てるようになります。
猫のボブは言葉ではなくて 寄り添うことや みつめることで彼に何かを訴えかけます。
青年はそれを読み取る心を持っていたからこそ 生きることが好きになり
初めて自分以外の存在の為に ちゃんと生きたいという気持ちを持てるようになったそうです。
まさに猫のボブの仏性が ドラッグに溺れてしまった青年の仏性を目覚めさせたのかもなあ と思いました。
有名な禅問答で 犬や猫に仏性はあるか? というものがあります。
今回のブログのタイトルにある 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう) という言葉は
この世に生けるものは 生まれながらにして仏性が備わっているというような意味だったと思います。
そうなると この問答の答えは当然ながら ある になるわけですが
仏性というものをどう解釈するかで 答えは違ってきちゃうのかもしれません。
仏教を深く色々な側面から考えた時には 無い という答えもある意味では正解なのかもですね。
ただ 今日 ここで書きたくなっちゃったのは 私の思う答えはまさに 一切衆生悉有仏性 なわけです。
私が思う 仏性 というのは 心そのもの という思いがあるからです。
本来は生きとし生ける物すべてというところで 厳密にいうと植物も含まれてきます。
私たち日本人は小さな石ころひとつ 雑草の一本にでも神の姿を見ることができる
八百万の神という心を持っていますよね。
何にも その心を求めるなら きっと見ることが出来るものであると思います。
それは ありのままの姿を認めて敬う物を見出す 日本人の持っている恵まれた力だとも思っています。
よく動物の生態に基づいた行動様式などの本を読んでいると
その動物の習性としてこうだから こういった感情は持ち合わせてはいない という
なんとも納得しがたい科学的根拠が示されていたりします。
分かり易いところでいうと 猫は単独で生活する習性なので寂しさは感じない。
いやいや…… 猫と暮らしている方ならお分かり人なると思いますが
彼等は寂しさをダイレクトに表現してくれますよね。
これは 猫に限らず ワンちゃんについても イヌという種族の習性として こういう感情は無いとか
けっこうキッパリと言い切られていたりする物も目にする機会が多いです。
私の中では習性と心というのは 同じ場所で考えるべきものではないというのが持論です。
習性って本能からくるものだし 心は感情からくるものですよね。知性からと言っても良いかもしれません。
猫やワンコたちが習性だけで生きている訳ではなく 家族とコミュニケーションを取りながら
嬉しい 悲しい 寂しい 心配だよ そんな豊かな心で接してくれていると思っています。
この心こそが仏性であるなら まさに 一切衆生悉有仏性 でOKでしょう。
ネイティブの世界観には 精霊 というものがあります。
それぞれ どの動物にも精霊は存在しますし もちろん木やら石やら魚やら でかいところでは火山なんかも。
言葉で表現された時には形を変えていますが これも結局は 一切衆生悉有仏性 なんだと思います。
何かと出会うことで 自分の中で眠っていた部分が目覚めたり 何か足りない物に気づかされるのも
自分以外の誰か 何かが持っている仏性との出会いがあってこそなのかもですね。
この人生の中で私を支えてくれてきたのは 多くはこの動物たちの持っている心 仏性だったと思います。
私はなんちゃってブッディストであり ネイティブのなんちゃって弟子であり
学問として系統だった きちんとしたことは分かりませんので
この文章を読まれて とんだお笑い草の戯言と思われる方も少なくないかもしれませんね。(爆)
ただ 難しい学問や 他の複雑な問題と絡めてこのことを考えるよりも
自分の中で大事にしておきたいことなので このままシンプルな持論として抱えておこうと思います。
こんな真夜中に なに寝言いってやんでえ!ってことですが とりあえず自分の総括その1程度に
書いておこうと思いました。
オチもまとまりも 何もないのでござる。
おわり。(・ω・)

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