絵馬。
http://www.kanabun.or.jp/ 神奈川近代文学館
そこで國男が民俗学に向かう きっかけになったといわれる間引き絵馬を
大きなパネルで見てきました。
間引き絵馬で画像検索して頂くと すぐにヒットすると思います。
今 自分が産んだばかりの赤ちゃんの首を絞めるお母さん。
障子に映る影には角が生えています。
絞められている赤ちゃんの魂を迎えに 地蔵さまが涙を流して佇んでいる。
そんな絵が描かれています。
残念ながらパネルの写真では 地蔵さまの部分は褪せてしまっていました。
この絵馬が人に与える衝撃は ただの残酷な話ではないからこそ
少年時代の國男の心に大きく影響したのかなあ…などと勝手に思っています。
國男自身 日本で最後と言われる飢饉を体験していて
こういった状況が身近にあったことも 描かれている母親の心情を感じ取るには
充分な下地になっていたかもですね。
今まで冥婚の意味で故人に伴侶を願う むかさり絵馬や
恐山での花嫁 花婿のお人形の奉納や 子もどの成長に合わせた
ランドセルの奉納など 亡くなられた人に向けた想いを込めた物を見てきました。
この前 深浦で見た ちょんまげを絵馬に貼って奉納した髷額も
やっぱり想いを形にした物です。
この間引き絵馬に描かれた人の想い 願いはどんな物だったのか。
生きるために鬼にならざるを得ない母親でありながら
自分が手にかけた赤ちゃんの魂が救われるようにと願わずにはいられない
ものすごくせつない物だったのではないかと想像しています。
この絵馬に描かれている地蔵さまですが 有名な地蔵和讃というものがありますよね。
ひとつ積んでは母のため ふたつ積んでは父のため っていう
賽の河原の情景と そこで子供たちを救ってくれる地蔵さまのお話しです。
この中で鬼たちは小さい子たちが積んだ石を 意地悪く叩き崩します。
親よりも早く死んでしまって なんて親不孝なんだよ おまえら。
それが鬼の理屈なんですね。
でも この間引き絵馬では 意図的に親が子供を亡き者にしています。
それは親に子殺しっていう罪を犯させたことを 子供は賽の河原で責められるって
そういうことになるのかな… と これまた物悲しい気持ちになって帰ってきました。
今の世の中 親が子供に食べ物を与えずに餓死させたり
親の理屈で躾と称した虐待で命を断ったりするニュースが多いですよね。
この絵馬のお母さんと そういった親とを一緒のところで考えることはできないし
地蔵さまに子供の魂を助けてくださいって 願う気持ちもある訳ないと思ったりもします。
食べることに困らずに 働けばなんとでも生きて行かれるし
どうしてもダメなら行政のサービスを受けまくっても 生きるし育てるって決めたなら
全うできない時代ではないはず。
恵まれた時代を生きていることを 思い出させてくれる絵馬でした。
柳田國男というと遠野物語っていうイメージが先行しちゃいますが
遠野物語を書ける本物のロマンチストである反面 現実を直視して
その背景を洞察できる学者としての一面は 本当に素晴らしい人だと思います。
古来より 亡くなった人の魂はこの世にとどまり
一緒に居続けるというのが 日本人の自然な考え方という風なことを書いています。
でも この世にとどまるというよりも 恐山や仏壇やお墓 いろんなところで
待ち合わせして いつでも接点を持てるっていう風に 変わってきているのかもしれません。
命が生まれて終わっていくことは自然な流れではあるのですけど
だからこそ軽んじてはいけない 大事なことだと改めて思ったりした一日でした。
オチはありませんです。(・ω・)

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